最近若い音楽家から相談されることが増えた。

「若い頃、どうやって初めてのリサイタルをしようと志し行動に移したのか・・。」

(いずれ書きます)

レッスンをしながらアドバイスし、頑張ってリサイタルに漕ぎ着けたひと、

準備万端で、私のところに訪ねてきてくれ、ただGOサインが欲しかっただけのひと、

リサイタルをしたい理想はあるが、どうしても本人が考える色々な問題があり、それがネックになり行動を起こせないひと、

リサイタルをするために、頑張っていたのだが、自分の理想の状態にたどり着けずとん挫してしまうひと、

とにかくいろんなひとと縁がある。

私が初めてリサイタルをした時は25歳だった。

周りの反応は、大変だし難しいのではないか?

まあ、実力も伴っていなかったと思う。

私の真剣な音楽人生のスタートは18歳だったから笑、そりゃそうだ。

18歳といえば、ピアニストとして完成の域に近づいている人もいるからだ。

当時18歳の私は脱力という言葉の本当の意味さえしらなかったし、弾きにくいところは力を入れて弾けばなんとかなるとさえ思っていた・・。腕力が尋常でなく強かったので余計に力に頼りやすい人間だった。

いまだに思っているのは毎年進化しているということ。

自分の奏法も常に変化している。10年前、3年前、1年前と今は違う。

私の持論は、「楽」でなければ始まらないということ。

その「楽」にも無数の段階があるということ。

その「楽」の階段を今もなお登り続けている。

「楽」の最初の段階は、自分の体に負担がかからぬよう、演奏中に体にかかる負荷からから解放されることを目標にすることから始まる。

その段階を進んでいくと、「体」が楽になっていき、「心」が「楽」になっていく。

心の「楽」には2つある。

「安心」と「楽しい」だ。

ひとが、演奏しながら緊張したり、時に演奏の難しいパッセージを一種の苦行のように感じるのは、「安心」がないからだ。

体が「楽」になればなるほどより深い「安心」が手に入る。

その結果、私たちは音楽に没頭する。それがもう1つの「楽」すなわち、「楽しい」だ。

より深い「安心」に包まれた心は演奏する「楽しい」に没頭する。

なんのご縁か数年前(内緒にして欲しいそうなので詳細は書きませんん)、あるピアニストが夢であるリサイタルを開くため他県から週に2回3回と通ってきた。私が大分にいるスケジュールといつも最悪前日くらいに調整するるスタイルだった。他県から通ってくるバイタリティと熱意に押されるされるうち、往復費用やレッスン代が莫大になることに私が罪悪感を感じるようになり(もうその人の熱意に共感していた)、なるべく楽になるようにといろいろネットを駆使したり、やったが、それでもその人が通うペースは変わらなかったため、リサイタルのためのコースを作って費用を抑えられるようにした。もちろん、このコースはほとんどの人に勧められない。なぜなら助ける側の責任が大きいので私も本気になるからだ。大変なのだ。厳しい一言で心が萎えてしまうひともいるだろうから。信頼関係が必要だ。

結果は素晴らしかった。

そして最近またふとしたことからある人がそういう運びになった。

私も自分の演奏で忙しいので迷ったが、彼女の行動力と高い理想は十分だ。

彼女の悩みはプログラム曲の仕上げ方、暗譜の仕方、リサイタルまでのスケジューリング、など多岐にわたっていた。

私のやり方は他の人とは違うと思うが、まあ、共通している部分も多いだろう。

上記の項目全てを一緒に考え管理するのは大変だが、結果的に引き受けた。

1年半後が目標だ。

「問題」をと問題として眺めているうちは、解決困難に見えるものだ。

でも、おもしろいことに、自分がその「問題」の中に入り込んでその問題の一部になっていまえば、その問題はその役割を終えて幻のように消えていく。

問題の役目は、その問題を見た人に「躊躇・ちゅうちょ」させることだ。

「問題」は、問題を解決しようと問題の中に入り込み問題の一部となってしまったひとに影響を及ぼすことは何一つできない。「問題」は外から眺めた時のみ存在が許される事象なのだ。結果的に「問題」は問題ではなく、むしろ「飛び込んでみませんか?」と誘っているようなものだ笑

後進に伝えられることがあるということは幸せなことだと思う。

ガンバリマス。

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